なぜ新・スパイ防止法が必要なのか?
それは、二度と「ゾルゲ事件」のようなことを起こさせないためでもあります。まず、ゾルゲとゾルゲ事件について簡単に説明しておきましょう。
これまでに、ソ連のスパイ・レフチェンコについて述べましたが、リヒャルト・ゾルゲ(1895~1944)もまたソ連のスパイとして、戦前日本で暗躍した人物です。ソ連からロシアになっても「英雄」として語り継がれている第一級のスパイであります。
ゾルゲは、ドイツ人の父とロシア人の母の間にロシア帝国のバクー(現在はアゼルバイジャン共和国)で生れ、幼少期にベルリンに移住し、後にベルリン大学にも通います(1920年卒業)。第一次世界大戦(1914~1918)にも従軍し、足を負傷、悲惨な戦争体験によって、社会主義の考えに接近したと言われています。
1917年にはロシア革命が勃発していますが、その翌年、ゾルゲは独立社会民主党に、20年にはドイツ共産党に入党。1924年には、ソビエト連邦共産党に加入するためにモスクワへ派遣され、コミンテルン(共産主義政党による国際組織)の本部情報局要員に抜擢されるのです(後に赤軍第4本部に編入)。スパイ・ゾルゲの誕生です。
1930年、ゾルゲ(暗号名はラムゼイ)は、ドイツの有力新聞『フランクフルター・ツァイトゥング』記者の身分で上海に入り、ソ連の諜報網を強化するため、中国共産党を支援するため、尽力します。そのゾルゲと意気投合し、諜報活動を助けたのが、アメリカ人の左翼ジャーナリスト、アグネス・スメドレーであり、朝日新聞記者で共産主義者の尾崎秀実でありました(尾崎は共産党員ではなかった)。
1933年、ゾルゲは日本の対ソ連政策、ソ連攻撃計画やナチスドイツの動きを探るために、東京特派員、ナチス党員というかたちで来日。駐日ドイツ特命全権大使・オイゲン・オットに取り入り、上手く騙して、情報を仕入れ、ドイツのソ連侵攻作戦の情報をソ連に伝達したのです。しかし、ソ連の最高指導者・スターリンは、ゾルゲを二重スパイと疑っていたようで、ゾルゲ情報を信用せず、結果、ソ連は緒戦で大敗することになります(1941年6月)。
一方、ゾルゲは尾崎秀実、アメリカ共産党員の洋画家・宮城与徳、ドイツ人無線技士のマックス・クラウゼン、ユーゴスラビア人特派員のブランコ・ド・ヴーケリッチを諜報団に組織し、日本軍がソ連を攻めるか(北進)、フィリピンなどの南方へ向かうのか(南進)を、ソ連のために探ります。特に尾崎秀実は、近衛文麿政権のブレーンにもなっていたので、重要機密を得やすい立場にいました。
「南方資源確保のため、日本は南進する」との情報を尾崎から得たゾルゲは、それをソ連に打電。日本とドイツの挟撃を免れたソ連は、兵力を欧州方面に回し、やがてドイツ軍を押し返すことになるのです。特別高等警察の捜査によって、ゾルゲのスパイ活動が判明し、ゾルゲや尾崎らは1941年10月に逮捕されるのです。これが、ゾルゲ事件の顛末です。
(つづく)
濱田 浩一郎(はまだ こういちろう)
1983年生まれ、兵庫県相生市出身。
歴史学者、作家、評論家。皇學館大学大学院文学研究科博士後期課程単位取得満期退学。
兵庫県立大学内播磨学研究所研究員・姫路日ノ本短期大学講師・姫路獨協大学講師を歴任。
現在、大阪観光大学観光学研究所客員研究員。現代社会の諸問題に歴史学を援用し迫り、解決策を提示する新進気鋭の研究者。
著書に『播磨赤松一族』(新人物往来社)、『あの名将たちの狂気の謎』(中経の文庫)、『日本史に学ぶリストラ回避術』(北辰堂出版)、『日本人のための安全保障入門』(三恵社)、『歴史は人生を教えてくれる―15歳の君へ』(桜の花出版)、『超口語訳 方丈記』(東京書籍のち彩図社文庫)、『日本人はこうして戦争をしてきた』(青林堂)、『超訳 橋下徹の言葉』(日新報道)、『教科書には載っていない 大日本帝国の情報戦』(彩図社)、『昔とはここまで違う!歴史教科書の新常識』(彩図社)、『靖献遺言』(晋遊舎)、『超訳言志四録』(すばる舎)、本居宣長『うひ山ぶみ』(いつか読んでみたかった日本の名著シリーズ16、致知出版社)、『龍馬を斬った男 今井信郎伝』(アルファベータブックス)、『勝海舟×西郷隆盛 明治維新を成し遂げた男の矜持』(青月社)、共著『兵庫県の不思議事典』(新人物往来社)、『赤松一族 八人の素顔』(神戸新聞総合出版センター)、『人物で読む太平洋戦争』『大正クロニクル』(世界文化社)、『図説源平合戦のすべてがわかる本』(洋泉社)、『源平合戦「3D立体」地図』『TPPでどうなる? あなたの生活と仕事』『現代日本を操った黒幕たち』(以上、宝島社)、『NHK大河ドラマ歴史ハンドブック軍師官兵衛』(NHK出版)ほか多数。
監修・時代考証・シナリオ監修協力に『戦国武将のリストラ逆転物語』(エクスナレッジ)、小説『僕とあいつの関ヶ原』『俺とおまえの夏の陣』(以上、東京書籍)、『角川まんが学習シリーズ 日本の歴史』全15巻(角川書店)。